・1990年 |
■1990年夏〜 |
沖縄の情報誌「月刊おきなわJOHO」で、カメラマン兼ライターとして働いていた奈須重樹が、仕事をきっかけに民謡酒場に通い始める。根っからのショーマンである彼は、民謡酒場のステージに飛び入りで歌うことに味をしめカラオケより深いエンターテインメント性を民謡酒場に見いだすようになる。
そんなある日、結婚式の余興に出るチャンスを得た奈須は仕事仲間の嘉手川学(フリーライター)と共にアコースティク・ギターのデュオ「やちむん」を結成。 怪しげな外観に引かれて入った宜野湾真志喜にある小さなライヴハウス「Bottle Neck」のジャム・セッションにも参加し、そこで即興で歌ったのが初のオリジナルソング「パイプラインそばでそばを食べて」である。 「パイラインそばでそばを食べて」以外にも「もじゃげの唄」や「Jr.にハートブレイク」の原型にあたる20秒程度のショートソングがこの時期に作られていて、それ以外は歌謡曲やフォークソングが彼らのレパートリー。 郷ひろみの「よろしく哀愁」が十八番であった。 なす「まじむん(化け物)で〜す!」 嘉手川「ふりむん(馬鹿野郎)で〜す!」 二人「二人あわせてやちむんで〜す!!」 これが当時の彼らの登場挨拶。ほとんどコミックバンドである。 「Bottle Neck」のオーナー知念保とその友人、本村実篤と意気投合した奈須は「Bottle Neck」のクリスマス・ライヴに一人で飛び入り参加。この時期より、嘉手川との溝が深まる(笑) 結局、嘉手川学主催の忘年会での余興が第1期やちむんの最後の演奏となった。 ※ちなみに今頃になって、奈須曰く「この時期は第1期やちむんじゃないよ。 雑誌で云えば創刊準備号みたいなものだからマイナス1期だね」 |
・1991年 |
■1991年早春 |
奈須は知念保(ギター)と本村実篤(パーカッション)と共に第2期やちむん結成。 この頃から、奈須はミュージシャンとして本腰を入れるようになる。 この時期に、オリジナル4曲目「マシキ・オン・マイ・マインド」を作曲。 |
■1991年6月 |
フェスティバル(現OPA)ビルのガジュマル広場のイベントに参加したのがきっかけ。 夏まで、同広場で不定期にてライヴ活動を行う。 その間、数々のコンテストに応募するも落選続き。 |
■1991年8月〜10月 |
映画「パイナップル・ツアーズ」に奈須が撮影助手(兼余興大臣)として参加した為やちむんはしばらく休業。 この映画に、杉本役で出演した女優:洞口依子に惚れこんでしまった奈須は、彼女に愛を込めて「杉本ブルース」(後に「タコス屋で会いましょう」に改題)を、撮影の合間に作曲。 この曲は、撮影終了間際の飲み会で洞口さん本人を、目の前に初お披露目され大好評を博した? ※「パイナップル・ツアーズ」制作発表パーティーに数曲披露した奈須は、出演者の照屋林助大先生から「奈須の歌は政治的だなぁ。今度、会費払うから僕も一緒にやらせなさい。」と意味不明なお言葉を頂く。 |
■1991年秋 |
「タコス屋で会いましょう」がエフエム沖縄主催のコンテストに合格。 勢いに乗ったやちむんはクリスマスの時に、パレットくもじ前にてゲリラライヴを敢行するが不本意にもラジオ沖縄のイベントにのみこまれ募金箱を持たされる。 |
・1992年 |
■1992年1月 |
ライヴハウス「酔ing」のこけら落としライヴを行う。 以後、そこで月に1〜2度のペースでライヴ活動を行う。 また、「酔ing」の年始ライヴを毎年やちむんが勤めるようになる。 |
■1992年夏 |
YAMAHAの沖縄フェスティバルに出演「がんばれいぼやーるー」を大観衆の前で披露。 TVやラジオにもちょくちょく出演するようになった。 この頃「Bottle Neck」界隈で、活動を行っていたベギー(儀部高行)の所属するバンドが解散。 ボーカル担当の彼を、なぜかトランペット奏者として奈須がスカウト。 ちょうど同じ時期、岩手から知人のベギーを頼ってスカトロ佐藤(佐藤哉)が来沖。 来沖、初日にやちむんのライヴを見て感動した彼は、奈須への弟子入り宣言。 早速、学生時代に触っていたトロンボーンを故郷の母ちゃんに送ってもらいやちむんに参加する。 二人のホーンセクション加入でグレードアップした第3期やちむんの誕生である。 ところがその直後、ほのぼのボンゴ実篤がパーカッションの修行に行くという口実で本土へ季節労働に旅立つ。 しばらくパーカッションなしの4人編成でライヴ活動を続ける。 ※当時のやちむんを見た笑築過激団の座長:玉城満氏曰く「奈須の歌は社会派ではなく社会科派だなぁ」 |
■1992年11月 |
フェスティバル・ビルの小劇場「オークス・フェスティバル・シアター」(通称:OFT)にて、初の本格的単独ライヴを敢行。実篤もこのライヴに合わせて帰郷し、数カ月ぶりの5人編成。 奈須さんの撮った「浦添〜宜野湾のパイプライン&バブルボックス」の写真のスライド上映をバックにした演奏もあり大好評を博す。この後、平良受理(アコーディオン)と仲村和弘(サックス)の二人が加わりメンバーはやちむん史上最大の7人編成に増える。 第4期やちむん時代。 |
・1993年 |
■1993年初頭 |
ギターの保が自分の創作活動に専念する為、脱退。 やたらとホーンセクションの目立つ第5期やちむん時代の始まりである。 |
■1993年3月 |
小劇場「OFT」にて、2度目のライヴ。 生演奏と映像の融合ライヴという凝りに凝った内容で、オープニングに平和通からフェスティバル・ビルの6階にある劇場までの間を練り歩きながら「がんばれいぼやーるー」を演奏する彼らの姿が、中継映像でステージのスクリーンに映し出され(本当は録画)そのまま観客入口から場内に登場。 休息時間には、奈須のインタビュー映像が映し出され「タコス屋で会いましょう」の演奏の時はバックに「パイナップル・ツアーズ」でのメイキング場面が流れた。 観客は大いに盛り上がっていたが、前回のライヴの半分にも満たない30数名しか入っておらずこの贅沢なライヴを体験できた数少ない一人という希少価値に喜ぶ客が続出。 告知よりも内容に力を入れてしまったことにライヴのプロデューサーは反省しきり・・・。 |
■1993年9月 |
オリジナルソング9曲を収めたカセットテープのアルバム「チムがある」を作成。 今となってはCD未収録曲多数の貴重なアルバムだが「酔ing」や「Bottle Neck」などで密かに発売された。テープの発売は10月。 |
・1994年 |
■1994年1月 |
“キング・オブ・やちむん”の奈須が「しげなす」という名でパレットくもじにあるリウボウホールにてライヴを行う。 ライヴ名は「しげなすLIVE!」アメリカ出身のミュージシャン:スティーヴィーがゲストで出演。 やちむんの時とはひと味違うシンプルで美しいアコースティク・ギターのセッションが観客の胸を打つ。 |
■1994年2月 |
那覇市文化協会が県内の若手ミュージシャンたちを集めて作成したコンピレーションCDアルバム 「THE SHOW CASE NAHA 1994」に「がんばれいぼやーるー」が収録される。
録音には保も参加。このように脱退したメンバーもライヴや録音で臨時参加することは多い。 |
■1994年3月 |
NHK沖縄「あたらしい沖縄のうた」(「みんなのうた」のような番組)で「がんばれいぼやーるー」が1ヶ月間テレビやラジオで流れる。 |
■1994年4月 |
この頃までにベギー・佐藤・仲村がバンド結成をきっかけにやちむんから離れる。 受理もバンドを脱退。保が戻ってきて再び第2期やちむんのメンバー3人だけでちょっとだけ活動。 ジャズバンドを渡り歩いていたウッドベース奏者の川上武がやちむんの演奏にいたく感激。 奈須にやちむん入りを懇願し、保と入れ替わるようにメンバーとして加入。 奈須(ボーカル&ギター)・実篤(パーカッション)・武(ベース)の3人編成の第6期やちむん時代の始まりである。 |
■1994年6月 |
「がんばれいぼやーるー」(やーるーボイスバージョン)がCDシングルとして発売。 (カップリング「ばんしるー」)「青空」とともに初のプロモーション・ビデオを自主作成する。 リウボウホールにて、CD発売記念ライヴ。 「がんばれいぼやーるー」と「青空」のプロモ上映。 「マイ・ロード・アゲイン」と「北前ソング」(後に「キタマエ・サンライズ」に改題)のバック映像付き演奏と、これまた贅沢な内容で観客を喜ばせる。 「がんばれいぼやーるー」(やーるーボイスバージョン)をプロデュースした黒川氏が「今まで見たあらゆるミュージシャンのライヴの中で最高の出来」と大絶賛! 「モクマオウのトンネル抜けて」が、那覇市国民年金課の3分30秒のロングTV−CMで使用される。 このCMを見て感激した、エフエム沖縄の名アナウンサー安谷屋真理子さんが自分のレギュラー番組で1ヶ月間テーマソングとして使用。 |
■1994年9月 |
リウボウホールにて、ジャズバンドの「ほぼジャメジャメ・ホー」とセッション・ライヴ。 この時、観客の中に山里満寿代がいて彼女は、ライヴの打ち上げにも参加。奈須と意気投合する。 (このちょっと前に「酔ing」で行われたフィリピン系バンドのライヴ時に奈須と満寿代は出会っていた) |
■1994年秋 |
満寿代がやちむんに加入し、4人編成の第7期やちむん時代突入。 奈須(ボーカル&ギター)・実篤(パーカッション)・武(ベース)・満寿代(バイオリン) |
■1994年12月 |
「がんばれいぼやーるー」がCDカラオケに。 ところが、時代はLDカラオケが主流で、通信カラオケも出始めていた為カラオケ屋で見かけたという情報は得られなかった。 (仲田幸子芸能館にはあった。) 実篤やちむん脱退。しばらくして武が謎の失踪。 |
・1995年 |
■1995年 |
恒例の「酔ing」年始ライヴで、奈須&満寿代のデュオ編成による、第8期やちむん時代が始まる。 |
■1995年秋 |
ミュージック・コンテスト「ジャパン・オープン」の九州大会に出場。 見事、九州ブロック代表に選ばれ、奈須はメジャーでのCDデビューの日も近いと希望を抱く。 |
・1996年 |
■1996年3月 |
「ジャパン・オープン」の全国大会に出場するも入選ならず。 奈須は残念賞として貰ったテレホンカードを手に涙・・・やはりCDアルバムは自分で出そうと決意。 |
■1996年夏 |
初のCDアルバム「プリン」の録音&制作。 |
■1996年12月 |
デビュー・アルバム「プリン」発売 浦添音楽祭に「ロード・トゥ・ナミノウエ」が入選。 やちむん他3組(KATSUJI BAND・OVER・パイナップリンセス)の入選作と共に 浦添音楽祭のCDに収録される。 |
・1997年 |
■1997月11月 |
本場泡盛“古酒ちゅらら”のTV−CM やちむん出演&CMソング作曲 |
・1998年 |
■1998年4月〜5月 |
2ndアルバム「トゥナー、ストゥ&ピーツァ」を自宅のスタジオで収録。 |
■1998年7月 |
2ndアルバム「トゥナー、ストゥ&ピーツァ」発売 |
・1999年 |
■1999年9月 |
3rdアルバム「ニューハウス・ミュージック」を慶留間島にて録音。 |
・2000年 |
■2000年3月 |
4rdアルバム「ニューハウス・ミュージック」発売。 |
■2000年6月 |
「新良幸人 PRESENTS 第10回一合瓶ライヴ」に出演。 満寿代がドラム演奏を初披露し、観客を熱狂させる。 やちむんは第1回目からずっと出演し続けている。 |
■2000年8月 |
九州ツアー(大分・延岡・宮崎) |
■2000年11月 |
YAMATOツアー(名古屋・大阪・福岡) |